2011.03.23 Wednesday
ラオス竹紙の旅記録22
2月19日朝
ノンキャウからスローボートでムアンゴイを目ざす。
ムアンゴイへの交通は船だけしかない。
こんな感じの船に10人あまりの乗客が乗り合ってメコン川の支流をさかのぼっていく。
これまでのホコリだらけの陸路と違い、風を受けながら、景色を見渡しながら進む船の旅は、本当に快適だ。
ワクワクする楽しさと、ドキドキする怪しさに満ちている。
時々両側には浜辺が現れ、水牛の群れが水浴びをしていたり、川沿いに暮らす村人達が投網を打っていたりする。かと思えば牛の群れが砂埃をあげていたり、子どもたちが裸で泳いでいたりする。
陳腐なたとえだが、私の連想は、もうずいぶん昔に行った浦安のディズニーランドだった。船に乗って世界の水辺を回るアトラクションがあった。「は〜い、皆さん、右を見てください。カバの群れが水浴びをしていますよ〜。あっ、今度は、船の前に、大きなワニが口を空けて現れました〜。左には裸の子どもたちが泳いでいますよ〜。大丈夫でしょうかぁ」なんて具合にコンパニオンガールが解説しながら進んでいく代物だったが、このスローボートは、まさにその本物版、という感じなのである(もちろんこちらにはコンパニオンガールはおらず、ワニもいなかったが、雰囲気はまさにそんな感じだった)。
はたまた夫は、映画「地獄の黙示録」の妄想にとらわれていた。マーチン・シーン演じる若き兵士が、ベトナムの奥地の川を遡って、マーロン・ブランドの潜むあやしい密林へと入り込んでいくあのシーンを思い起こすというのだ。
互いに勝手な妄想を膨らませながら、1時間半ほど進んだところで、目ざすムアンゴイについた。
村のなかに適当なゲストハウスを見つけ、荷物を降ろしてあたりを歩く。
真ん中に1本メインストリートがあるだけの小さな村だ。
陸路がないせいか、南の島の集落みたいな雰囲気だが、なぜか南の島には似合わない、切り立った山がそびえているのがおもしろい。
ゲストハウスのすぐ前の広場で、またまた不思議な物を見つけた。
村人達が、バナナかタロイモの茎?を伐ったり切れ目を入れたりしながら、小さな家のような形を組み立てている。
植物や花、実を組み合わせて、飾りもできてきた。
まるで、京都の家の近くで秋におこなわれるずいき祭りみたいだ。
夜には、こんな神輿のような形になった。
まわりには、紙幣(偽物)がたくさんぶら下げられている。
そして、お坊さんが何人もやってきて、なかでお経も始まった。
えっ、もしかしたらお葬式?
じゃあ、あんまり覗き込んだら悪いかな?
それにしては、そんなに悲しそうな雰囲気がないけれど....。
よくわからないまま、その夜が始まり、村は恐ろしい状態になった。
夕方から、船で大きな発電機やスピーカーが運び込まれ、何やらみなで設置作業をしていると思ったら、ものすごい音量で音楽が鳴り響き始めたのだ。
初めは大音響の北島三郎と三波春夫、それに天童よしみそっくりのラオス演歌オンパレードだった。それから村人総出のカラオケ大会がはじまり、若者達のラオスポップス?も続いた。すべて、村中に鳴り響けと言わんばかりの大音響。私たちのゲストハウスは広場の前にあるので凄まじい騒音だ。静かな村でのんびりとくつろごう、と考えていたわたしたちは、ひとときたりとも止まることのない大音響に、耳がおかしくなりそうだ。
さらに、そのスピーカーの大音響にかぶせるように、なぜか、民族楽器の音色も聞こえ始めてきた。若者の唄と、民謡もかぶさり合ってゆずることなく聞こえてくる。
いったいこれはなんなのだ?と、村人に聞くが、英語を理解する人があまりいないので、はっきりしたことがわからない。
でも、片言の英語のやりとりからわかったことは、やはり「死んだ人の魂にささげる儀式である」こと、「まつる人は、今死んだ人ではなく、もっと前に死んだ人」らしいこと。そして、若者達のカラオケも、年寄り達の民族楽器も、同じ「亡くなった人に捧げる行事」としてみなでおこなっているらしいことであった。
じゃあ、それってお盆みたいなものかしら?
翌朝ゲストハウスのご主人に聞いたら、「夢のお告げを受けてやっている」とか「仏教とアニミズムが合わさった信仰だ」とのことだったので、要は「ずいき祭り」か「地蔵盆」という私の解釈もあながち間違いではなかったのかもしれない。
お盆か法事じゃ文句は言えない。
しかし、半端ではない音響である。
夕方に始まったイベントは、村中総出で老若男女が広場に集っていて、何時になっても終わる気配がなかった。もちろんお酒も浴びるほど飲み続けていて、私たちも出て行くと、お酒を勧められ、歌や踊りに参加させられる。
夜中にカラオケを見に行った夫が、驚いて戻ってきた。私たちはずっとカラオケの機械が伴奏をしていると思い込んでいたのだが、ひとりの男性がシンセサイザーを使って、さまざまな曲を演奏し続けていたのだ。「カラオケ」ではなく「なまおと」だったのだ。
これは「ラオスの大友良英だ」と夫が言う。
若者達のカラオケは夜中の3時に終了した。
そして、年配組の唄と民族音楽はさらに翌朝7時まで続いた。
これは朝6時半の民族音楽。
ラナートという竹で作った木琴と二胡のような弦楽器、そして鉦や太鼓もある。
唄は、みなお酒を飲みながら、居合わせた人々が、次に歌う人を指名しながら、輪になって、つぎつぎ歌い続けているのだった。
正真正銘、一晩中、音楽は、ひとときたりとも休むことがなかった。
ラオス、恐るべしエネルギー。
でも、この竹の木琴の音色と手拍子で民謡を歌うおばちゃん達の歌声、すばらしかった。この音と唄、少しだけ録音もしてきたので、機会があればお聞かせしたいものです。
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