2011.02.28 Monday
ラオス竹紙の旅記録11 ムアンシン・ヤオ族
2月13日 ルアンナムターの西北に車で1時間半ほど行ったところにある、中国国境にほど近いムアンシンの町に向かう。ムアンシンとそこに至る周辺は、何人かの人たちから「竹紙を漉いている可能性がある」と話を聞いていた場所だった。
途中の道でも、竹紙を干しているところはないかと目を凝らす。
ないなあ。
ルアンナムターからムアンシンに向かう川の中程には大きなダムが出来ている。8年くらい前に出来たとあとで聞いたが、どうも、ダムが出来たことで、水の流れが変わったような形跡がある。常時水が定量で流れなくなったために、水量が著しく減ってしまった部分や水のよどみがひどくなって汚れの目立つところもある。 これでは紙漉もしにくくなったことだろうなあと想像する。
結局車の道からは紙漉を見つけられないまま、ムアンシンの町に入り、ヤオ族の集落訪ねることとする。ヤオ族はレンテン族同様中華系の強い民族なので、竹紙を漉いている可能性が強いのでは?と谷由起子さんも言っていた。
ナミー村。
確かに、ヤオ族の家にはこれまでの集落になかった瓦屋根の家が見られ、日本や中国との近さをより感じる。
一件の瓦屋根の家に立ち寄らせてもらった。家にいたご主人のユンニャンさんに話を聞く。
「竹紙は作っていませんか?」
「2009年までは作っていたんだけれど、今は作っていません」
「ええっ、どうして止めてしまったんですか?」
「竹もだんだん少なくなってきたし、使うのはお葬式や行事のときだけだし、それに自分で作らなくても、中国で安い竹紙をいっぱい売っているから、作るのは止めてしまったんですよ」
「そ、そうなんですかあ!」
がび〜んである。
「ほれ、これが私が作っていた竹紙(右)、そして、これが中国製の竹紙(左)です」
ユンニャンさんは両方の竹紙を見せてくれた。中国製の竹紙は、ムアンシンの市場にも入ってくるそうだし、なにせ、安くてたくさん流通しているのだそうだ。
「紙漉の道具はどうしましたか?」
「もういらないから、全部捨ててしまいましたよ」
ガビビビ〜ン!である。
ユンニャンさんが持っていた中国竹紙はよく知っている。
数年前に中国に竹紙を探しに行った時にもよく見かけた安い大量生産の竹紙だ。
サイズも小判で、紙質ももっと荒い。
それでも、竹紙であることに変わりはなく、儀式にも使えると言われればそうではあるだろう。
この村では、竹紙には字は書かず、写真のように圧し型をつけた竹紙を燃やして使うと言っていた。このやり方も、中国でもみかけたことがあった。確かお盆などの法事の時に、これを燃やして使うと言っていたと思う。
ヤオ族の村は、中国国境にも近く、また顔を見ても中国人により近い感じを受けるので、民族や文化的にも中華圏に近いところがあるのかもしれないと思う。
今使っている中国竹紙。家族が病気になったときなどにも、先生と相談して、このような押し型をつけて燃やすと言っていた。紙には文字はかかないそうだ。
家の門口には漢字が書かれていた
ユンニャンさんの家の前で
結局、ナミー村では、現在紙漉をしているところは1件も残っていなかった。
う〜む、やめてしまっていたか....。残念....。
他の村はどうだろう。ユンニャオさんの村だけの状況かもしれないし...と思い、別のヤオ属の村を訪ねてみる。
ナミー村よりもやや中国国境に寄ったウドムシン村。同じヤオ族の村である。
ここでも何人かの人に竹紙を作っていませんかと尋ねてみたが、皆ここ5〜10年くらいの間に作るのをやめてしまったとのことだった。理由は同様に、中国から安い竹紙がたくさん入ってきているから、だそうだ。
中には、竹紙に古い漢字を書いた経文を持ってきて、ほしいなら売ってあげようかという人もいた。
「それはあなた達にとって、大事なものだから売らないでください」とお断りしてお返したところ、持ち込んだおばさんもそうかな、と思ったようで、あっさり本を持ち帰っていった。
竹紙を作る、という伝統がなくなるとともに、儀式への思いも少し薄れてきているのかもしれない、との思いを抱いた。
そのほか訪れたヤオ族の村でも、この10年くらいの間に竹紙を漉くことをやめてしまったところがほとんどだった。
ヤオ族の村のおじいさん。初対面の私たちに握手をしてあいさつし、イスを勧めてくれた
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