2011.02.24 Thursday
ラオス竹紙の旅記録5 ニットさん
2月11日 ここルアンナムターで、今回の旅で通訳をお願いしたニットさんと落ち合う約束になっていた。
ニットさんは、ラオス人で34歳。今はビエンチャン在住だ。
そもそも10年あまり前に、ラオスでも竹紙を漉いていることを知った私は、「いつの日かラオスのどこで誰がどのような紙を漉いているのか見たい」と思うようになった。
チャンスがあれば少しずつ資料など集めていたが、あるとき、友人から「ラオスの研究をしている日本女性が京都にいるよ」と教えてもらい、4〜5年前にその女性とパートナーのラオス人男性に会う機会があったのだ。
それが京大の大学院でラオス研究をしていた吉田香世子さんとご主人のニットさんだった。
お会いしたときは、まだ私のラオスの旅も漠然とした夢だったので、いつの日かチャンスがあればという感じだったが、去年ラオス行きを具体的に考え始めたとき、真っ先に思い浮かんだのが香世子さんとニットさんのことだった。
二人には赤ちゃんが生まれ、しばらく前からラオス在住となったと聞いていた。
最初は、情報や通訳のことなど教えてもらえればと思い、連絡を取っていたのだが、香世子さんが、「私が通訳をしましょうか」といってくれて、旅はグンと現実味を増した。
竹紙の旅は、通常の旅行とは異なり、紙漉をする人との会話がとても重要だと思っていたので、どうしても、調査の期間中は、現地の言葉ができる人の存在が必要だった。
それが計画を立てて、旅も近づいた頃、香世子さんにとって重要な仕事が決まったため、旅の通訳をお願いすることは難しくなった。「さあ大変、どうしよう!」と思ったが、そのとき、ご主人のニットさんが香世子さんの代わりの役を務めてくれることになったのだった。
村の道端の木になっていたタマリンドを食べるニットさん。
ニットさんは12人兄弟の6番目で、13歳のときから10年間、ルアンパバーンのお寺で修行生活を送っていたそうだ。兄弟が多く両親は大変だったので、お寺に入ったのだと言っていた。まさに私が見た、あのルアンパバーンの少年僧の生活をしていたということだ。
ニットさんに「お坊さんの生活、どうだった?」と聞くと、「最初はつらかったけど、そのうちなれた」と言っていた。
そして、10年が経ち、ニットさんはお寺を出て、タイの大学に通う。
ようやく慣れたお寺の暮らしから社会に出て行くのは、また勇気のいることだったろう。
ラオスで香世子さんと出会ったニットさんは、日本に来て数年間を過ごし、今はビエンチャンの赤十字で、HIV患者を社会につなぐコーディネーターをしている。
人は、自分と異なる多くの人に出会い、様々な経験を積み、社会にはさまざまな人がいるのだと知ることで、その人々の暮らしや文化や宗教を理解し、ときに共感を持って受け入れることができるようになるのだろう。
このあとの旅で、私たちはニットさんを通して、多くの少数民族の村の中に入り込み、また地元の人達との交流を持つ貴重な機会を得る。
あまり構えることなく、おばあちゃんや子供たちの肩にちょっと手を置いて話しかけ、いつの間にか村の奥や家の中まで入って行ってしまうニットさんのさりげないおおらかさが、私たちをラオスの奥へと誘ってくれることになった。
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