2011.02.24 Thursday
ラオス竹紙の旅記録2 朝の托鉢
2月9日 朝6時半頃から托鉢の僧達がホテルの前を通るというので外に出る。
近所の住人達もラオスの主食カオニャオ(餅米を蒸したご飯)の入ったおひつを持って前の道に座っている。
なんだか住人と一緒に座ってみたくなり、ホテルの人に頼んで、前にござを出してもらい座る。残念ながら自分でご飯は炊けないので、どうしたらいい?と聞くと、ホテルの人がお菓子をたくさん買ってきてくれて、それを渡すようにと言われてかごに入れて待つ。
京都の家にも托鉢のお坊さんが読経の声を響かせながらやってくるので、雰囲気はわかる。
阿闍梨さんの通る道に座って頭をなぜてもらって加持?を受けたり、山伏の一行に祈祷を受けるのと似ているのかな、と思う。
でも、10人くらい来るのかな?とか思っていたら、「毎朝200人が来る」と言われて驚く。
確かにしばらく待つと、オレンジ色の袈裟を着たお坊さん達が次々とやってきた。
肩から籠のような容れ物を下げ、蓋を少しずらしたところに、ご飯やお菓子を入れていく。
私たちも一瞬の出会いに心を込めて食べ物を渡す
お坊さんの多くは10代の若者だ。12、3歳くらいのまだあどけない少年も多い。
地方の子だくさんの家庭からお寺へ預けられる子どもたちも多いそうだ。
あとで知ったことだが、今回の旅で、ルアンナムターで通訳を務めてもらったニットさん(彼のことはもう少し先に登場するのでそのとき紹介します)も、13歳から10年間ルアンパバーンのお寺で過ごしたそうだ。彼はその後、お寺を出て大学へ行き、日本女性と結婚して新たな道を歩むことになる。
なんだか10歳でお寺に預けられた水上勉先生のことを思った。
水上少年もお寺に入り、学び、そこを出て、いろいろな職を経て小説家になった。家計を助ける口減らし、という言葉もあるが、地方の貧しい少年にとって、お寺は間違いなく食べ物を口に出来る暮らしの場でもあり、学びの場でもあったのだろう。
ラオスのお寺でも、少年僧はお寺から学校教育を受け、そこに残るものもいれば、そこから出て行くものもいるそうだ。
そして、そのお坊さん達を支えているのがまわりの住人達だ。
ホテルの隣に住むおばあさん。私が見る限り、毎朝かかさず、きちっとした身なりをして、朝の托鉢にお供えのご飯をさしあげていた。
200人の僧全員に、少しずつではあるが、ご飯を差し上げ続けていた。 「喜捨」というと、なんだか持てるものが持てないものにものをあげる、というニュアンスを感じてしまうような気がするが、ラオスで感じたのは、住民たちはお坊さんをとても大事に思っているという感覚だった。
自分たちに出来ないことをお坊さんはしてくれている。だから、大切なお坊さんに毎日ご飯を差し上げるのは当然のことだ。そんな感じを受けた。
後日、ニットさんに「托鉢でいただいたご飯、それからどうするの?」と聞いたら、ニットさん、当然のことという感じで、「食べます」と言った。ラオスではお坊さんは食事を作ることはないのだそうだ。朝と昼を食べ、夜は食べないと言っていた。
ああ、それなら炊きたてのおいしいご飯を差し上げたかったなあと思った。
でも、ここでは、食べ物を差し上げる、という行為を通して、もう二度と会うことはないかもしれない僧達と、一期一会の出会いをすることしか、旅の私には出来なかった。でも、それでも、ほんの一瞬だけ彼らと確かにふれあった、と思った。
ふだんはごくいい加減な(多くの日本人と同じような)仏教+神教+一木一石信仰の私だが、ラオスでは、この光景に出会った時、「OH,ワンダフル!」と言ってカメラを構えるだけじゃなくて、この国の人々の持つ心が少しはわかる程度の宗教心の持ち合わせがあって、なんだかよかったな、と思った。
ラオスの、ルアンパバーンの持つ穏やかさ、やさしさの底に、この宗教心は大きいのかな、と思った。
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